このような流れでこの戦いは終わったのですね。
勉強になります。
7月1日、宇喜多秀家が豊国社で前代未聞の盛大な出陣式を行い、これに北政所は側近の東殿局(大谷吉継の母)を代参させている。 7月11日、三成は東軍に加わる予定の大谷吉継に「家康打倒」を打ち明け、吉継を己の陣営に引き込んだ。この点から、秀家が先に決起し、三成はこれに引きずられるように挙兵を決意したという見方が最近の研究では非常に有力である(有力な三成派の武将である真田昌幸が三成の協力要請に対して「どうして事前に知らせてくれなかったのか」と文句を言った手紙が現存しているが、引きずられての決起なら準備工作が後手に回ったのも頷けるし、佐竹義宣、津軽為信などの三成と親密な武将たちが国許にあって西軍に参加できず身動きをとれなかったのも理解できる。結局義宣は父義重の反対に遭って中立を余儀なくされ、為信は秀吉に本領を安堵してもらった時に三成に尽力してもらった大恩があったが、周囲がすべて東軍だったことからやむを得ず家康に誼を通じている。為信は戦後三成の子重成と左吉を保護している。また高台院の養女になっていた三成の三女辰姫は後に為信の子で二代藩主の津軽信牧に嫁ぎ、三代藩主となる津軽信義を産んでいる)。7月12日、佐和山城で三成は吉継、増田長盛、安国寺恵瓊と秘密会議を凝らし、毛利輝元への西軍総大将就任要請等を決定した。同日、愛知川に東軍に参加予定の諸将を食い止める関所が設けられ、長宗我部盛親、鍋島勝茂らが足止めを食らい、結果的に西軍への参加を余儀なくされた。
7月17日、ついに三成は挙兵宣言を発し、翌日、家康の家臣である鳥居元忠が預かる伏見城に開城要求を勧告したが元忠は拒絶。その翌日の7月19日から攻城戦が行われる。伏見城は宇喜多秀家、島津義弘らにより攻められ、元忠らの奮戦むなしく8月1日に陥落した(伏見城の戦い)。その後、丹後国の田辺城、伊勢国の安濃津城、松坂城などを攻略し、8月までには陥落させる。三成自身は美濃方面を抑えるため、8月10日に佐和山城から西軍の拠点をなす大垣城に入った。
一方東軍は、江戸に留まる家康を除き東海道を西進、福島正則、池田輝政の先発組が、8月22日、河田(現一宮市)より木曽川を渡り、米野村(現笠松町)付近で西軍と激突(河田木曽川渡河の戦い・米野の戦い)。東軍はさらに進軍し、翌日、織田秀信(三法師)が城主の岐阜城を落とした。家康は江戸で諸将に書状をしたためていた。藤堂高虎、黒田長政らを使い、豊臣恩顧の大名の東軍繋ぎ止めと西軍切り崩しを図っていた。岐阜城が落ちたのを知ると、家康は重い腰を上げ約3万の兵とともに東海道を大坂方面を目指した。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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