監督になるまで
東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区東大井)の学校法人日本体育会(現:日本体育大学)敷地にて、4男4女の末っ子として生まれる。兄は活動弁士であった須田貞明。父親は秋田県大仙市(旧中仙町)出身の元軍人、体育教師、学校法人日本体育会理事。黒田小学校(文京区立第5中学校)を経て、1928年、京華中学校卒業。弁士であった兄と黒田小学校時代の恩師・立川精治から大きな薫陶を受ける。また終生の友となる植草圭之助との出会いもこの小学校であった。
はじめ画家を志して日本プロレタリア美術家同盟に参加、洋画家の岡本唐貴(白土三平の実父)に絵を教わり二科展にも入選した。1936年、画業に見切りをつけて26歳で100倍の難関を及第しP.C.L.映画製作所(現在の東宝)に入社。谷口千吉の推しで主として山本嘉次郎の助監督(「馬」などを担当)を務める。この時期、本多猪四郎も仲間だった。 助監督時代に書いた脚本「達磨寺のドイツ人」は、映画化はされなかったものの評論家の間では話題となり、伊丹万作から絶賛された。
影響を受けたロシア文学とルネッサンス芸術
黒澤は多感な中学生時代にロシア文学に出会いドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフ等の作品を読みふけり、自己の人生観、倫理観の形成に多大な影響を受けた。またその後自身の脚本構成や映像製作にも与えたものは大きいと言えよう。 また画家を目指した経緯もありミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチ等の絵画や彫刻に心酔していることはよく知られていることである。
白黒映画監督時代
1943年、『姿三四郎』で監督デビュー。以後、終戦を挟んで『一番美しく』『わが青春に悔なし』『素晴らしき日曜日』『醉いどれ天使』『野良犬』などの社会派ヒューマンドラマの佳作を次々と発表し、東宝の看板監督の一人となる。
また山本が参加していたオーディションで、三船敏郎をたまたま目撃。本来は落選となっていた三船だが、一目ぼれした黒澤は山本に直訴までして採用。三船のデビュー作『銀嶺の果て』では既に脚本を務めた(主演は志村喬)。三船のデビュー3作目『醉いどれ天使』からは、黒澤監督作品の常連俳優となった。
自身の映画制作
東宝争議の混乱を経て、成瀬巳喜男らと映画芸術協会を設立し東宝を退社。1950年に大映で撮影した『羅生門』は1951年にヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞。その映像感覚が国際的に注目される。続けてドストエフスキー原作の『白痴』(1951年)やヒューマンドラマの傑作『生きる』(1952年)を発表し、後者でベルリン国際映画祭上院特別賞を受賞。
1954年に発表した大型時代劇『七人の侍』は大ヒットし、ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞を受賞するなど国際的評価も受ける。シェイクスピアの『マクベス』を日本の戦国時代を舞台に翻案した『蜘蛛巣城』(1957年)や娯楽時代活劇『隠し砦の三悪人』(1958年)を作成後に、独立プロダクションである黒澤プロを設立。時代活劇の傑作『用心棒』(1961年)『椿三十郎』(1962年)、社会派サスペンスの傑作『天国と地獄』(1963年)を立て続けに発表し大監督の名声を確定させる。
黒澤プロの設立は、黒澤監督の意向によるものというより、『隠し砦の三悪人』の大幅な撮影予定期間オーバーによる予算超過に業をにやした東宝側が、黒澤にリスク負担させることにより枷をはめようとしたものであり(収益の分配も東宝側に非常に有利な契約になっていた)、「天国と地獄」までの作品はその皮肉な成果といえよう。枠をはめられる事を嫌っていた黒澤がその完全主義を徹底させた『赤ひげ』(1965年、 山本周五郎原作)は、撮影期間約1年を要して大幅な予算超過となり、東宝との関係を悪化させることとなった。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
黒澤監督は妥協を許さない厳しい演出でとても有名ですね。
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